この日記は、平成17年3月より「いわき民報」夕刊に掲載された随筆です。
石の鈴木 代表 鈴木正典が、愛知県岡崎市での修行から始まり現在に至るまでを綴ったものです。
[1] 修行時代
昭和五十九年三月一日、高校の卒業式を終えたその足で、家業の石屋を継ぐため私は父に連れられて愛知県岡崎市の石屋に見学に行った。そこでは若者達六人で仏像を彫っていた。その姿に感動しながらもまだそこは私には無縁の世界のように思えた。見ていると七十歳を過ぎた職人さんが墨壷を持って若い人達を指導していた。聞けば親方の父上だとか。その姿に父は心打たれ「是非ここで息子を修行させて下さい」と親方に頼み込んだ。親方は「うちは五年間の修行ですよ」と言った。それを聞いた私は、五年で仏像を作ることなどとても出来そうもないと、その場から逃げ出したくなった。そんな私の心情を見抜いたかのように親方が言った「最初から出来る人なんて居ないんだよ」と。それから十日後、私は岡崎に向かう電車に揺られていた。見送ってくれた友達の姿を思い出し、涙ぐみながら。寮には修行のため全国から石屋の息子たちがやってくる。そこでは一日でも先に入った者が兄弟子となる。私と同じ日に入寮したのは偶然にも同じ福島県出身のS君だった。その日から二人の厳しい修行の日々が始まった。
2005/03/ 掲載分
[2] 修行時代
石屋の修行は寮生活から始まった。寮での生活のルールは先輩に一から教わった。食事の用意や部屋の掃除は一年目の弟子の仕事だ。朝晩の食事は親方の奥さんの作ってくれた料理を手早くよそって並べる。兄弟子たちの座る席はきちんと決まっているので間違えたら大変だ。大目玉が飛んでくる。ガーガーと石を削る音が年中鳴り響いている石屋の仕事場では作業着はいつも砂埃だらけ、掃除をしても部屋はすぐに汚れる。だからといって手抜きをするとやっぱり大目玉が飛んでくる。風呂に入るのも順番が決まっていて同期のS君と私は必ず最後のしまい風呂で風呂掃除付き。S君が同じ福島県人でよかった。「これが修行だ!」と二人で励ましあいながら頑張った。 普段は怒鳴ってばかりの鬼の兄弟子たちも休みの日曜日は一転して仏の兄弟子になっていろんな所へ連れて行ってくれた。車で三十分ほどで行けた名古屋の街の灯りを今も懐かしく思い出す。寮での団体生活は、時に厳しく時にやさしく、私に人と人との繋がりの大切さを教えてくれた。
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[3] 修行時代
石屋の修行は道具の名前と使い方を覚えることからだ。まず鎚(つち)とノミ。大きく石を削り取る時に使うコヤスケ。彫刻刀のような形をしたコベラは仕上げに使う道具。ざっと数えても二十種類以上はあるだろう。昔はすべて手作業だったが今は電動工具も使いこなさなければならない。寮に入った次の日には工場に入り親方からノミと鎚を渡された。「仏像を作る一番の基本は台座となる蓮華だ。すべてはここから始まる。お前たちが今から削る石は練習台じゃないぞ。お客様に渡す大切な製品だからな」最初から真剣勝負。初めて石を叩いた時、石が硬い物だということを改めて実感した。石を削ることを「はつる」といい、ノミすじを入れてまっすぐにはつることが基本だ。新米のうちはノミを持つ左手の甲が血だらけになり、麻痺して動かなくなる。体はいつも中腰状態で、トイレで腰を伸ばしていた。毎日八時間この作業が延々と続く。たまに親方に用足しを頼まれて外出するのが修行時代のささやかな楽しみだった。ノミを使いこなせるようになるのに三年。蓮華が作れるようになるとそこからが石彫刻の始まりだ。
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[4] 修行時代
修行を始めて3年目に入る頃、弟弟子ができたので、私は仏像作りに入ることになった。お地蔵様の姿を覚えるために、寮に戻ってから番頭さんや兄弟子たちに指導してもらいながらお地蔵さんの絵を描いた。何百枚も描いてどうにか仏像の絵を描けるようになったが、子供の頃から粘土細工が好きだった私は「絵だけでは立体感がないので粘土でも作ってみたい」と番頭さんに聞いてみた。初めての試みだったのだが、番頭さんは「それはいいことを思いついたな」と褒めてくれた。弟子に入って褒められたのはこれが初めてだった。最初はお地蔵さんの顔を作るところから。これも絵を描くのと同じくらい難しく、やさしく慈悲深い表情を作ろうと粘土のお地蔵さんを作っては潰し作っては潰しの繰り返しだった。やっと出来上がったお地蔵さんを石膏で型を取りそれを原型にして実際に石彫に入る。初めて手がけた仏像彫刻は2尺(六十センチ)のお地蔵さんだった。兄弟子が荒削りしたお地蔵さんの衣のしわを柔らかく自然に表現しなくてはならない。仏像彫刻の入り口はまず仕上げを覚えることから。小さな仏像からだんだん大きな仏像へと修行の日々は続く。
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[5] 修行時代
ようやく仏像作りに慣れてきた頃、今度は神社に据える狛犬や狐、七福神の彫刻に入った。粘土で原型を作り石膏で型を取るのは仏像彫刻と同じだが、仕事が休みの日には近くの神社へ出かけ狛犬などの写真を撮って参考にした。父が私の修行をここでと決めたのは親方のおやじさんが若い弟子たちを指導する姿に心を打たれたからだった。そのおやじさんに教えを乞(こ)いながら原石から彫り始めた。「石は腕の力ではつる(削る)のではない、道具に使われてはいかん。道具を自分の体の一部として使いこなせ」「一から十まで手取り足とり教えてもらおうなんて思うな。ここは学校じゃあないんだぞ。兄弟子や番頭さんの仕事を見てその技術を盗め」おやじさんの言葉は私に仏像作りへの意欲を沸き立たせ、休憩時間になると兄弟子たちの手がけている仏像の写真を撮ったり寸法などを書き込んだりして仕事を覚えていった。おやじさんの指導を受けてみて父がここを私の修行の場所に選んだわけがわかった。最初の頃は父を恨めしく思ったり逃げ出したくなったりした日もあったが、今は父に感謝している。鉄は熱いうちに打てということだったのだろう。
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[6] 修行時代
修行二年目からは週三回夜七時から九時まで職業訓練校に通わせてもらえる。訓練校には私が入学した石材科の他に建築科、左官科、板金科があり、いずれも各事業所の親方が講師になって指導してくれた。一年生の時は墓石、石灯籠、石仏を学んだ。そこで墓石の形がそれぞれの地方によって違うことを初めて知った。また日本には茨城県真壁、香川県庵治(あじ)、愛知県岡崎という三大石材産地があり、なかでも父が私の修行の場として選んでくれた岡崎は石彫刻が有名で石材科はほかのどの科より生徒の数が多く、北海道から九州まで日本中の石屋の息子が集まってきていた。卒業後も毎年十月に岡崎で行われる石の展示会には各地から集まってきて思い出話に花を咲かせている。訓練校の仲間たちは私にとって大きな財産だ。学年が進むにつれ図面や見積書、契約書の書き方、お客さんとの取引方法などを学ぶようになったが、修業中の身には遠い世界のことのようだった。月に一度は苦手なテストもあり、学校は仕事が終わった後からなので遊びたいし眠たいし。サボりたいという誘惑についつい負けてしまった日もあったが今ではそれもいい思い出だ。
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[7] 修行時代
岡崎に来てから五年が経った。そろそろ修行も終わりに近づいて、もうすぐいわきに帰れるとひそかに心躍(おど)る思いでいた私に親方から「あと一年俺のところに居る気はないか」と言われた。父に相談したら「経験のないお前をここまで仕込んで下さったんだ。お礼奉公をしてから帰って来い」との返事だった。お世話になった親方に「お礼奉公」させてもらうため、あと一年この地に残ることにした。今度は弟子ではなく石屋の職人として後輩たちに訓(おし)える立場になったのだ。弟子の面倒を見ることで人に訓えるということが訓えられるよりも難しいということを知った。修行中は兄弟子が荒削(あらど)りした仏像を私が仕上げたのだが、今度は私が荒削りしたものを弟子に仕上げさせる。仏像作りは荒削りでその姿が決まってしまうので荒削りは難しい作業だ。しかも仕上げをする者が少しでもやりやすいようにと心配りもしてやらなければならない。自分が弟子の時は早く修行を終えていわきに帰りたいと思ったりしたが、弟子の気持ちを考える立場に立ってみると厳しく指導してくれた兄弟子達を思い出し改めて感謝の気持ちで一杯になる。
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[8]修行時代
私のお世話になった親方の所では修行を終える時、総決算として何か一つ仏像を作ることになっていた。私は熊本の兄弟子が作りかけていた十五尺(四メートル五十センチ)の観音様を引き継いで仕上げることになった。顔の大きさだけで二尺(60センチ)ほどもあり、全体のバランスを考えながら作ってゆくのが難しく、あらどり(荒削り)から仕上げまで、六年間で学んだことをひとつひとつ思い出しながら最後の大仕事に臨んだ。半年かけてようやく仕上げた観音様は北海道のお寺さんに安置されている。振り返れば修行中には地蔵様から七福神、羅漢様までいろんな石像を手がけさせてもらった。私達の作った仏像は関東関西を中心に納められ、入魂して今も各地で祀ってもらっている。親方から初めてノミと鎚を渡された日から今日まで「よし!完璧だ」と思える仕事はまだできてない。納めた後で「あそこをこうしておけばよかった。」と反省することばかり。ひとつ仕上げて納めた後、次はもっと良いものをと思うのだが・・・仏像作りの修行には終わりがないということか。あの厳しい修行時代があって今の自分があるのだと思う。
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[9]石職人
平成二年四月末。ようやく岡崎での修行を終えた私に、父はあらどり(荒削り)をした観音様とお地蔵様を持って帰って来いと言った。自分の足で探してきた軟らかくて粘り気のある石を、親方の仕事場を借りて一ヵ月かかってあらどりした。それを持っていわきに戻り父のもとで石屋の仕事を始めた。今度は父が私の師匠だ。注文を受けたお地蔵様を初めて父の目の前で彫った時、父は黙ってジーっと私を見つめていた。その顔は今まで私が見たことのない職人の顔だった。決して褒めたり甘やかしたりしないぞという厳しい職人の顔だった。家に戻って三年、仏像彫刻の仕事をしながら父に墓石の作り方を教わった。仏像と墓石では使う石が全く違う。柔らかい線を出す仏像とは逆に角(かど)をたてなくてはならないので硬くて粘り気がない石を使う。硬い石は欠けやすく、ツヤをだすために何度も砥石を変えて磨きをかけて仕上げる。墓石の師匠である父にしっかりやれと怒鳴られる。これもまた修行。お墓にも様々な形があり、お客さんの要望を聴きながら造り、完成させる。職人にとって「いいお墓ですね」というお客さんの笑顔が何よりのご褒美だ。
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[10] 職人魂
岡崎からあらどり(荒削り)して持ち帰ったお地蔵様は工場の入り口に飾り、観音様は菩提寺のどこかに安置してもらいたいというが父の希望だった。海嶽寺の開山塔と歴代の住職の墓碑を作ってもらいたいとの依頼があった時、「菩提寺に自分の仕事が残せる。」と大張り切りだった父。「元禄とか宝暦とか刻まれた石がこうして今も凛と立っている。俺たちの仕事は何十年、何百年と残っていくものだから後の人に笑われない仕事をしなくてはな」と言ってた父は、仕事が始まって間もなく大きな病を得て入院することになった。私は毎日図面を持って父の元に通い仕事の指図をしてもらった。外出許可を貰っては苦しげな息ずかいをしながら現場にやってきて自分の目で仕事の進み具合を確かめていた父の姿が今もこの目に焼きついている。父にはまだまだ教えて貰いたいことが山ほどあったのに。開山塔の完成を見届けた後開眼を待たずに父は他界した。間もなく海嶽寺さんに永代供養塔と個人墓を依頼されて父の望みどおり菩提寺に私の観音様を安置してもらうことになった。父の居ない仕事場で私はあらどりした観音様と向き合っていた。
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[11] 仲間
いわきに戻り父のもとで働きながら地元の石材青年部に入った。八年位前に前部長の小名浜のYさんの紹介で入部して来られた川部のNさんが「今はパソコンの時代だよ」と指導して下さることになり青年部をあげてパソコンに取り組むことになった。父の時代は墓石の図面はすべて手書きだったので完成したお墓のイメージがすぐにお客さんに伝わらないもどかしさがあった。Nさんが墓石用に開発したソフトを使うと立体的な墓石設計が可能になり「百聞は一見にしかず」お客さんに理解してもらうのにとても役立っている。職人がパソコンなんてと眉をひそめていた父も図面を作る時は「年寄りの人に分かりやすいからパソコンで頼む」と言ってくれるようになった。私達青年部は平のK部長やパソコンに力をいれておられるYさんを中心に、石の産地を見て歩いたり県内の他の青年部の人たちと石材の情報を提供しあったり様々な活動をしている。昨年私が石材部の一級技能検定の国家試験に合格できたのも忙しい中を親身になってあれこれと教えてくれた仲間達がいてくれたおかげだ。これからも助け合いながらいい仕事をしてゆきたいと思っている。
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[12] 緑
平成十七年二月二十二日、澄み渡る青空の下で開眼法要が営まれ、観音像は入魂して観音様となられた。海嶽寺の前住職と私の父は、少子化の時代に向かってこれからは個人墓地や永代墓地が必要になるだろうと話していた。その父が他界し、海嶽寺のご住職も東堂となられ代替わりされた。息子であり徒弟でもある現住職と息子であり弟子でもある私が父親達の話していた個人墓地の構想を現実のものとすることになったのだ。岡崎の親方の仕事場であらどり(荒削り)し、いわきに戻り観音像として完成した石仏が、住職に入魂していただき、大勢の人々に手を合わせていただくうちに観世音菩薩となられてゆかれるのだろう。そして私たちの暮すこのいわきの美しい自然と人の心の温もりが、親から子へ子から孫へと受け継がれていくのをやさしく見守って下さるのだろう。折りしも今私の修行時代をすごした愛知県で「愛、地球博」が開催されている。愛知万博の催事総合プロデューサーをされている「チケットぴあ」の矢内廣社長の父上が眠っておられる海嶽寺に安置された観音様を見上げながら「縁」という目に見えない糸のつながりを感じている。
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